母の姿を見つけても、美鶴は大した反応もできなかった。すでに炎は鎮火しており、辺りには焦げた臭いと生暖かい湿った空気が漂っている。
「なによこれっ!」
母の視線を追って、再びアパートを仰ぐ。
全焼。
乾燥した冬ではなかったが、質が良くなかった。木造二階建。築何年かもわからないアパートは、その骨組みのみをわずかに残すばかりで、人が住んでいた数時間前の面影など、ほとんど留めてはいない。
辺りには部屋を追われた学生や外国人労働者と、駆けつけた警察や消防隊員がうろうろ。黒山のごとく集まった野次馬たちは、炎が下火になるのと同時に去り出していた。
「やだ、アンタ汚い」
言われて我に返り、己を見渡す。煤や埃を頭から被り、ジャージは黒く汚れている。背中で束ねた髪の毛も乱れ、先の方は焦げて縮れている。
「飛び降りろっ!」
叫ばれて夢中で窓から飛び降りた時のことを、なんとなく覚えている。だが、その後はただ何もできずに炎を見上げていた。
飛び降りた時に痛めたのだろうか? 左の足首に、軽い違和感を感じる。
「何か持ち出したの?」
問われてゆるゆると首を横に振る。
何もかもが燃えてしまった。
まだしっかりと回転してはくれない頭のなかでぼんやりと考える。
そんな呆けた瞳の娘を横目に、母は大きく息を吐いた。
「やれやれ」
「お母さん、なんで家が火事になったって知ってるの? 誰か連絡したの?」
美鶴母子はもともと地元の人間ではない。美鶴の高校進学と共に越してきたため、近所に知人はいない。
「警察から店に連絡があったの」
「警察?」
「そっ、生存確認でしょ」
そう言えば、警察に母の居所を聞かれたような気がする。何と答えたかは覚えていない。
「じゃあ、なーんにも残ってないってワケね? まぁ、大したモノ持ってなかったんだから、未練もないんだけどさ」
「通帳とかもない」
「大した残高なかったよ」
あっけらかんと答える母の横で、ようやく頭がまわり始める。
「制服… 教科書もない」
有名私立高校の制服や教科書。公立と違って値の張るそれらを、母に無理矢理用意してもらった。燃えてしまったということは、またすべてを揃えなければならない。
ただでさえ生活は苦しい。貯蓄もない。
「ねぇ、このアパート、火災保険とかって入ってるの?」
「入ってるようなアパートに外国人労働者は住めないと思うよ。ちなみに個人的にも入ってません」
ということは、やはりほとんど無一文。
絶句する娘を見て、呆れたように母は頭を掻いた。
「制服も教科書もだけどさ、とりあえず今晩どこでどうするか、それ決めないとねぇ」
「………」
確かに。
目を丸くして見つめる娘に、母はもう一度大きなため息をつく。
「とりあえず店のママにでも当ってみるよ。一晩くらいなら泊めてくれるかも。あ、でも今は男と同棲してるんだっけ? まだ付き合い始めて一ヶ月だもんなぁ。泊めてくれるかなぁ?」
知らせを受けてそのまま飛び出してきたのだろう。塗りたくったような厚化粧を歪ませ、真っ赤な唇を尖らせながら腕を組む。紫のスカートが風に揺れ、キツイ香水がそれに乗る。
一昔も二昔も前に流行ったようなボリュームのあるパーマは、しっかりと固定されているのか、ほとんど風には靡かない。
「とりあえずさぁ、駅前まで行こうか? もう警察にも用事はないんでしょ? こんなところに居たってしょうがないじゃん。ママに電話したいから公衆電話も探したいし」
そう言って一歩踏み出す母。
確かに、ここでこうして突っ立っていても仕方がない。
ついて行こうと足を向けた時だった。
「大迫…… 美鶴さん?」
声のする方へ振り返る。
薄暗い外灯を背に受けて立つ長身。背中で束ねた細い髪の毛が、薄く茶色に光っている。
横に流れ落ちる長い腕は、左はズボンのポケットへ。右はゆっくりと持ち上げられ、細く長い指を胸元へ添えた。
「お久しぶりです」
霞流慎二は、惨憺たる火事場には全く不似合いな微笑で、品良く美鶴に話しかけてきた。
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